第46,47回講座「房総の漁撈文化、自然体験活動の安全管理」

講師 田村勇、神保清司
開催場所 館山市立博物館分館 レクチャールーム
開催日時 2012年12月13日

テーマは、「房総の漁撈文化」と「自然体験活動の安全管理」
館山市立博物館(分館)にて

第46・47回講座の会場は、南房総の館山市に今年オープンした交流施設・渚の駅“たてやま”。館山市立博物館分館がこの施設内にあり、重要有形民俗文化財にも指定されている漁船や漁撈用具が展示され、漁撈文化を紹介するコーナーを見学できる。今日の講座には最適の施設といえる。海辺の広場にある小さな水族館の水槽には館山湾に生息する魚が泳ぐ。波穏やかな鏡が浦に面する施設で、海を隔てた対岸に裾野まではっきり見える富士山の姿があった。10時には全員(3名欠席)が集合。

午前は田村勇講師による「房総の漁撈文化」講座。房総の漁師と漁の歴史を語る内容で、漁撈文化についての興味深い話題に耳を傾けた。会場には聴講に訪れた地元の方の姿も見えた。午後からの神保清司講師の講座は、指導者向けの安全管理がテーマ。これまでの講座で海辺や山での注意事項については聞いてきたが、本日のテーマは指導者として知っておきたい安全管理に関することであった。

渚の駅たてやまの正面渚の駅内にあるミニ水族館

第46回講座 「房総の漁撈文化」

講師 田村 勇氏(館山市文化財審議会委員)
日時 12月13日(木)10:00~12:15
場所 館山市立博物館分館 レクチャールーム
内容 房総の漁撈文化の歴史を聞いた後、博物館に展示されている漁船や漁撈用具を見学した。

田村 勇講師講義風景

房総漁夫の生業
長らく都立高校の教諭として教壇に立たれていた田村勇講師は、房総の民俗や海の文化に詳しい。館山市文化財審議会委員を務められる。本論である漁法などの歴史の話に入る前に、枕の話として漁夫の生業について語られた。これは参考になりおもしろかった。

漁師というと、一艘の船を持って魚を釣り、それを生業とする漁民というイメージを思い浮かべるが、船を持って操業している漁民など少なかったのですよと田村講師は漁夫の生業について語り始められた。漁民には網元、船主、船頭がいて、漁夫がいる。地曳き網漁の船の上げ下ろしや網子、網船や延縄船、一本釣り船、棒受け網船などの乗り子として漁夫は仕事を得る。多くの乗子たちは近年まで旅漁の船に乗り郷里を離れた生活を送ってきたし、押送り船(おしょくりぶね)や渡海船の水夫(かこ)の仕事を生業としてきた漁夫もいた。漁夫は船など持つ必要がなかったのである。現在の漁師とはそこが違っている。“漁民とはいうものの、家族がそれぞれ役柄を持ち、主婦は農家の田植えの手伝いや自分の家の畑仕事などをこなし、船持ち漁民の家族は船の陸への上げ下ろしや漁獲物の運搬や処理などを手伝う生活があった。現在、多くの漁村では漁業を職業とする漁民が少なくなっている。漁船があってもそれは遊漁船かUターンした退職者の持ち船である。唯一、漁夫を湊で見かけるのは漁業組合か個人経営の定置網の雇用員として生業を立てている漁業者や養殖イケスの作業をする漁業者である場合が多い。”(“  ”内はテキストの文章より)

尚、南房総では、船主とはカツオ船やサバ船をもつ船持ち漁師のことを指し、船頭とはカジキマグロの突きん棒漁の頭のことを指していた。通常使われている意味と若干異なる。古い歴史をもつ漁撈文化を継承してきた地方には、こうした独自の呼び方があるのだろう。又、「かこ」と呼ばせる水夫のことであるが、富浦の或る部落ではほとんどの男たちは、押送り船や「渡海(とーけい)船」の水夫として乗り組んでいたとか。

明治以前の漁撈史
房総の漁の歴史は大変古く、海に潜って貝や海藻を採集する海士(あま)漁に始まる。平城宮址で出土した木簡に、安房の海士(あま)が調として鮑を朝貢したと書かれていた。景行天皇東征の話も房総の神話として残されている。これは奈良時代よりも更に古い先史の時代にまで遡る南房総の漁の話である。日本書紀にはここで獲れたカツオとハマグリが天皇に献上されたと記述されている。筆者は常々、この時代にどのようにしてカツオを獲っていたのだろうか?と疑問を抱いていた。カツオは波打ち際でも獲れたとご自身の体験を基に語られた田村講師の話に、ようやく疑問が消えることになった。遥かな彼方に居る飛鳥の役人はこの地方の豊かな海のことを知っていたのだと確信がもてるようになった。

時代は振り、大消費地江戸が形成される江戸時代になると、房総の海は江戸の御菜浦としてにぎわうようになる。関西漁師から進んだ漁法・製法がもたらされ、それが房州各地に広まっていき、房総の漁業は一気に盛んになる。

■中世末期、関西漁民が綿花栽培の肥料として需要が高かった干鰯を求めて房総に進出、江戸時代に入り、イワシを捕獲する大型漁法をもたらした。紀州(熊野)漁師(1555年)が九十九里浜に曳き網漁(後に地曳き網に)を、その後、摂津、和泉等の大阪湾岸の漁民や紀州漁民が進出し、外房には紀州栖原(すわら)村(和歌山県有田市)の漁民が八手網(或いは八田網)漁法や四艘張網(しそうはりあみ)漁法を伝えた。岩礁の多い外房や西上総、銚子等の沖合でも操業できるイワシ漁法である。この漁法は明治中期まで続いた。

■高級魚のタイ漁に目をつけた関西漁師は、泉州(堺)の漁民が富浦(南房総市)で長縄(はえ縄)漁を、紀州栖原(有田市)の漁民は竹岡(富津市)に進出し蔓網漁(かずらあみ・桂網漁)でタイを獲った。富浦で獲れたタイは東金に鷹狩に来ていた徳川家康の許にここから運ばれたという記録も残っている。その後、紀州加太浦からどんぶり釣りと称される一本釣りの漁法が伝わっている。

■房州の捕鯨は、慶長年間には南房総の勝山(鋸南町)で総網元である醍醐新兵衛により始まっていたとされる。東京湾に入ってくるツチ(槌)クジラを銛による突く漁。明治に入り近代捕鯨となった。和田(南房総市)で現在も続けられている。

テキストには、“旅漁は認めるが移住は認めなかったことから、藩政時代は泉州や紀州の漁民たちは漁期を終えると国元に戻って運上金を納めていた旅稼ぎの生活を長く続けていた。それも次第に崩れ、出漁地に定住する者も出るようになった。”とあった。イワシ漁やタイ漁など新しい漁法をもたらした関西漁師たちは、定住先を求めてやってきたのではなく、房総との間の行き来することに始まり定住するようになったことを教わった。

明治以降の漁撈史
■カジキ漁
カジキやサメなど大型魚を獲る突きん棒漁は、捕鯨の突き漁から始まったとされ、明治・大正期にかけて千倉(南房総市)で盛んだった。

■マグロ漁
明治初期まで東京湾口の保田・勝山周辺までマグロは回遊していた。周辺の漁村では出し網や大謀網で漁獲していたが、明治以降は布良(館山市)の延縄漁が主流になった。大正大震災後に衰退していく。

■サンマ漁
大網(大型の旋網)漁が明治中期まで続く。白浜や和田(南房総市)で盛んに行われた。大正から昭和期に棒受網(ぼーけあみ)漁に変わり、戦後は、大型の棒受け網漁(電光漁)になる。8月の漁期には北海道に向かう房州サンマ船団の出航風景が主要な港で見られる。

■カツオ漁
江戸中期に千倉で房州節が誕生以来、カツオ漁は一本釣り漁が伝統漁
法であった。館山湾では出し網でも捕獲していた。明治中期以降、動船が多くなり、曳き釣り漁が盛んになる。疑似餌釣り漁とも呼ぶ。カツオ漁の他、秋のイナダ漁がある。

■サバ漁
かがり火に集まるサバを一本釣りする。マサバ(平)は旬のもので、ゴマサバ(丸)は蕎麦汁用原料して需要があった。コマセ(まき餌)を撒いてタモで掬(すくい)捕る漁が盛んになったのは戦後のこと。

■刺し網漁
ワラサ、キス、カニ、イセエビ、ヒラメ、サザエ

■落とし籠漁
タコツボ、バイガイ、ウツボ、カワハギ

■立て籠漁
ボンテン立て縄、底物立て縄(ドラム釣り)イカ、キンメ、ムツ

■定置網漁

博物館の展示物突きん棒漁で使われた銛

第47回講座 「自然体験活動の安全管理」

講師 神保 清司氏(NPO千葉自然学校・南房総市立大房岬少年自然の家所長)
日時 12月13日(木)13:15~15:00 
場所 館山市立博物館分館 レクチャールーム
内容 自然体験活動指導者にとって最重要事項である安全管理について、対象者を知ることの重要性と普段の心構えを学んだ。



危険はどこにあるのか
「自然体験活動の安全管理」講座は2回に分けて行われるが、今回は座学、次回は応急措置を実習する。自己紹介の後、「危険はどこにあるのか?」をテーマに講義が始まった。自分の人生でどんな危険に遭遇したかとの問いかけに、7人の受講生から体験発表があった。自然体験指導の対象者となる子どもの場合はどうであろうか?それを知る手がかりとして、文部科学省が調査した子どもデータを示された。下記はその一部であるが、今を生きる子どもたちの体験歴や意識について、少年自然の家での経験を参考にしながら一つ一つ解説を加えられた。

                     平成10年     平成17年
  キャンプ経験は?          38%       57%
  星を見たことがあるか?      22%       35%
  日の出を見たことがあるか?   33%       43%
  大きな木に登った経験は?    43%       54%
  野鳥                  25%       34%

プログラム実施中の安全管理には、フィールド(活動場所)の気象確認、人員確認、スタッフの配置などが重要であると指摘されたが、特に雷情報の取扱い方を例に社会常識との法令との間にズレがあることを説明され注意を促された。更に、万が一の時の対応として、バッグの中にいつも持参している物を一つ一つ取り出して、普段心がけていることについて丁寧に説明された。



講座終了後、たてやまウミホタル観察倶楽部代表として環境保護や地域活性化に取り組んでこられ、水族館の運営にもアドバイスしてこられた三瓶雅延氏から、30分間程話を聞いた。この水族館の目玉であったウミホタルが極端に減少しているという。個体数が減っている原因は恐らく海水温の上昇によるものであろうとの話を聞き、資源保護の難しさを知った。

次回は、第48・49回講座(12月20日) 
講座名:「郷土の技」

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